【三徳山の略縁起】
西暦706年文武天皇の慶雲3年今より約1320年前、役の小角の開創と伝えられ、古くは美徳山と称していたか、その後三徳山となった。
山号「三徳山」の由来は、
・法身の徳(うつくしい)
・般若の徳(にごりのない)
・解脱の徳(はたらきのある)
よりでたもので、「私共の身に心に三徳を体得せよ。」という意味を表しているものである。
役の行者は岩窟の中に蔵王殿を建立、御本尊金剛蔵王大権現をお祀りしたが、人々がこのお堂は 役の行者が法力で岩窟の中に投げ入れたお堂だと申したことから、いつしか「投げ入れ堂」(なげいれどう)という名称となった。
奈良朝時代の伽藍仏教、貴族仏教は平安朝時代になると大衆仏教、在家仏教が国民大衆運動としてひろがり、全国に行場が開かれ日本古来の神道と仏教とが一体となったいわゆる神仏混仰の思想がはぐくまれ、「自然に帰る」山岳崇拝思想が全国にひろがり、これが後に「修験道」という教派に発展した。
その後、西暦849年仁明天皇の嘉祥2年慈覚大師円仁が浄土院(現在の本堂)に弥陀、釈迦、大日の三尊を安置したため三仏寺という寺号となり、天台宗に所属し今日にいたった。
西暦1196年(建久7年)源頼朝が堂舎、寺坊を造営し、寺領を寄進し、山上に重さ500貫の梵鐘を寄附。
西暦1577年(天正8年)羽衣石城領主南条元続が文殊堂、地蔵堂を再建。
西暦1649年(正保5年)国主池田光仲が観音堂を再建。
西暦1839年(天保10年)国主池田斉訓が現在の本堂を再建。
三徳とは、
・法身の徳 (美しい心)
・般若の徳 (にごりのない心)
・解脱の徳 (はたらきのある心)
人間は、この三徳を体得し、自然に帰心の垢を落とす為、朝に夕に合掌し、祖先に家族に社会と健康に感謝し、世の中になくてはならない人となりましょう。
合掌する心
右佛、左われ 中にゆかしき南無の一声
合 掌
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